1990年8月1日
【金沢】6:33発−(普通)→【米原】10:15着、10:18発−(普通)→【草津】11:02着、11:10発−(普通)→【柘植】11:57着、12:02発−(普通)→【亀山】12:26着、12:33発−(普通)→【名古屋】13:46着、15:00発−(快速)→【米原】16:11着、16:18発−(普通)→【金沢】20:03着
これが記念すべき乗りつぶし第1号である。といっても、今から乗りつぶしをしよう、といってはじめたのではなく、中学校の時の友人(といってもうち2人は高校が同じになった)3人で、「青春18きっぷ」の存在を知り、どこかへ行ってみるか、ということで、割とお手軽なルートを考えた次第である。
この旅を終わってから、徐々に「乗りつぶし」ということを意識しだすようになる。
ということで、この旅行記は旅行から10年以内に書こう、ということで、10年を経過する日の前日に慌てて書いております。もう10年も経ってしまったのですね。このとき乗った区間は割とその後乗っていて、日没後も含めると、その後少なくとも1回乗っている区間です。文章的には10年前の話なので、多少おおざっぱなところが多いですがお許しください。
大学の時はおなじみであったこの列車であるが、はじめて乗ったのがこのときである。北陸本線といっても普通列車で長距離を走るのは始めてで、普段は特急を使う。ただし、このときを境に普通列車ということが当たり前になってしまった。
4人とも家は近いのだが、遅れたときのため、ということで駅で待ち合わせをする。そして列車に乗り込む。車窓で何を見たかは忘れた、というよりも、そのあと何度も乗っている区間なので、今にして思うとさほど珍しい景色ではない。小松を過ぎたあたりで思いのほか速く走ることに驚いた。また、その後で当たり前になる特急待ちのための長時間停車もこのときはじめてだったのである。それにしても、米原まで着くために、何本もの特急に抜かれること。
4人とも朝食を食べていないため、福井駅停車中にキヨスクで、パンを売っていないか見に行ったがなかった。その後朝食をどうしたのか覚えていない。北陸トンネルを通る。特急と同じ、時間のかかる長いトンネルだが、普通列車の車両でここを通過しているということが異様であった。
敦賀を過ぎ、近江塩津からはいつもと違うコースとなる。いつもは湖西線経由の特急が当たり前であるが、そのまま北陸本線を通り、米原方面へ。雷鳥が通らないためか、線路の継ぎ目が気になる。少し保線を変えているのだろうか、とその時思ったが、今は全くそう感じない。
そうして、現在の乗換駅である長浜は普通に過ぎて、米原に到着する。
今なら、長浜で新快速に乗り換えて、ということになるが、当時は北陸方面から来たときはとりあえず米原から普通列車に乗っていた。そして、野洲あたりで新快速に乗ることができたが、確か京都あたりまで普通列車の方が早く着いたという記憶がある。よって草津までは普通列車となる。
この時はじめて113系という、オレンジと緑色の普通列車に乗ったのだが、4人で座っているためかものすごく狭く感じた。北陸本線の普通列車と明らかに椅子の大きさが違う。窮屈である。よく見ると通路が広い。
米原を出て、今では滅多にないことだが各駅に停まっていく。景色も北陸本線とは若干違う。そのうち高層マンションも見えてくる。そうしているうちに草津に到着する。
草津で降りて、草津線の列車に乗る。この路線が記念すべき乗りつぶし第1号になる。草津を出て、車掌を見ると、乗車券の販売に機械を使っていることに気がついた。今では常識になっているこの機械だが、どうもこのあたりから出だしたものである。
名神高速道路や国道がオーバークロスする。意外であるが、いつも見ている国道8号線は実はこのあたりから分岐する。その後は、水田ないし畑の中を通っていく。長閑な景色である。しかしそれにしてもよく揺れる。電車が気動車より軽くて、しかし路線が気動車の走るところ並、となるとよく揺れるのが分かる。この揺れはその後何回か乗ったときにもやはり気になるものだった。
貴生川で信楽高原鐵道や、近江鉄道を見る。その後この信楽高原鐵道ではあの痛ましい事故が起こるのだが、その時はそれを知る由もなかった。貴生川で乗客が多く下車する。
その後、「こうか」と濁らない甲賀を経て、油日。この駅に着いたとき、はじめて車内の蛍光灯がついた。ちょうど県境を通るのだから、トンネルでも通るために電気をつけたのだろうと思ったが、トンネルを通ることなく、終点柘植に着く。また、はじめて三重県に足を踏み入れることとなった。
柘植駅は山の中にあるという感じの駅である。実はこの9年半後、この駅を出てとんでもない目にあったのだが、それは未来の話。少し時間があるのでホームで待つ。友人の1人が記念に入場券を買ってきたいとのことで外へ出た。経費節減のために子供用を買っている人であったが、子供でないので子供用を買うことができなかったとのこと。青春18きっぷがあるのでどうせ買うだけだと言ってもだめだったとのこと。
見慣れた気動車が入ってくる。キハ28だの58だのという列車である。今では軽快なロングシートの気動車になっているが当時はこういう気動車だった。ワンマン用の整理券発行機、運賃箱があり、カバーが掛かっている。ワンマン化に向けての準備段階だったようである。
この区間はかつてはスイッチバック等で面白いところだったが、今はスイッチバックはなくなっている。しかし、山の深いところを走り、見ていて楽しい。そういう中を名阪国道という高速道路並の道路が並行していて異様であった。そのようなところを、エンジン音を全開にして一生懸命走っている。今では軽快に過ぎてしまうところである。
下りになり、しばらくして町が近づき亀山。ここで慌てて名古屋行きの普通列車に乗り換える。新しい電車で、しかも座席は転換式である。しかし2両しかない。近鉄に多く乗客を取られているらしい。
河曲を過ぎて、河原田から伊勢鉄道が合流する。その後、何度か近鉄がオーバークロスする。後からで来たものが上を通るということであるが、乗客も取られている。四日市あたりでの石油コンビナートはかなりインパクトがあった。日本海側ではほとんど見ることのできない光景で、線路を石油のパイプがまたがっている。高い製油工場もある。しばらくそれに見とれていた。また、四日市駅では乗客がもっと乗ってくるべきであるのにほとんど乗ってこない。くどいが、近鉄に乗客を取られている。
その後、桑名・長島を過ぎて弥富から愛知県に入る。地上では日本一低いところにある駅である。そういう看板もあった。そうしてだんだん市街地になってきて名古屋に到着する。名古屋では時間があったので少し駅前を歩く。近鉄と名鉄の駅が隣同士だったのははじめて知った。また、駅前で外人がペンダントなどを広げて売っているという光景も初めて見る光景だった。
名古屋から「快速」列車で米原まで行く。名古屋を出てしばらくは混んでいる。外も見ることができない。今なら時間があれば金山まで行き座る、という知恵があるのだが、当時はそういうことを思いもつかなかった。
大垣を過ぎて、垂井迂回線が分岐する。向こう側の山にそれらしき線路影が見えるが、よく分からない。関ヶ原、という地名もはじめて通過するところである。そして、その後は山の中、水田の広い谷を通り米原まで戻ってくる。
米原からは行きと同じように普通列車で帰る。団体で動いていると、日没後も退屈しない。それは今、割と一人で行動することが多い中では、何人かで動くメリットかなと思っている。ちなみに、この帰りの列車であるが、どうやら大学の時によく通学の帰宅で利用したもののようである。