1991年8月14日
【金沢】6:13発→(特急北越1号)→【泊】7:29着、7:32発→【糸魚川】8:00着、8:08発→【南小谷】9:20着、9:27発→【松本】11:18着、11:34発→【岡谷】12:01着、12:30発→【豊橋】18:03着、18:41発→【米原】20:34着、20:55発→【京都】21:50着、23:25発→(臨時快速ムーンライト山陽)
※乗りたかった飯田線に乗る。そのアクセスとして大糸線に乗った。一度乗ったときは日没後だったが、明るいうちとしてははじめての乗車。忘れられない景色となる。
金沢発5時21分発の普通列車に乗ろうとして家を出る。しかし、どう考えても間に合わない。間に合うはずがない。やはり間に合わない。実は数ヶ月前の高山本線の時もこの列車に乗り遅れていて、結局乗れた試しがない。その8年後にこの列車に乗る予定を組んだのだがその時ようやく乗ることができたのである。ということで、これに乗ることができないとこのあと飯田線に乗ることができない。今日の宿列車はムーンライト山陽であるからそのまま京都方面へ向かってもよいのだが、今回のメインの一つがなくなってしまう。とにかく、多少お金がかかっても(というほど持っていないが)特急列車で追いかけることにしよう。青春18きっぷではだめなので、別途乗車券を購入しなくてはならない。
このあとにあった今はなき「かがやき1号」。当時は全席指定であった。富山まで行けば追いつくことができる。しかし指定席には乗りたくない。当時「立席特急券」の発売される意味を知らずに、指定席なら何でも立席特急券があるのかと思っていたが、そうではないということをはじめて知る。それならと、そのあとの「北越1号」で泊まで行けば追いつくことを知る。それに乗ることにする。その時、冷静さを欠いていて自由席に多く乗ることになってしまったのだが、計算はしていないもののどうやら乗車券を考慮に入れると素直に「かがやき」の指定席に乗っておいたほうが安かったようである。9年前の話をどうこう言ってもしょうがないが、お金のない時によく思いきったことをしたものだと思う。
そうして不本意ながら特急列車で金沢駅を出発する。いつも乗る区間なので特に変わったことがなかったように思う。そして泊駅に着く。乗り遅れた列車が停まっている。無事本来の予定に復帰することができた。
その当時は北陸本線といえども、このあたりは2回目といった有様で、親不知あたりの景色を珍しく眺める。青海からは平坦になり、これから上っていく姫川を渡る。そうして、糸魚川に到着する。糸魚川では8ヶ月前に乗った大糸線に乗り換えることになる。
1両だけの気動車である。少し遠いホームからの出発となる。糸魚川を出て、しばらくは水田の中を通る。頚城大野を過ぎてしばらくしてからいよいよ山の中に入る。姫川に沿って国道と一緒にようやく通っているという感じである。根知・小滝を経て、姫川の渓谷を眺める。上から眺めるのではなく、川面近くを走り、対岸の切り立った岩を見上げるという形である。しかもほとんど人工の護岸がないため、非常にすばらしい景色である。あまり家から遠くないところにこれだけの路線があったのだと思う。8ヶ月前は真っ暗で分からなかったが、改めて明るいときに乗っておいてよかったと思う。しかしながら、その後、災害でこのあたりはめちゃくちゃになり、長い間運休してしまった。復旧後乗ってみた。基本的には渓谷を走っているのだが、かなり人工の護岸ができてしまい、この当時の景色はなくなっていた。すばらしい景色はなくなってしまうというリスクを抱えているのである。
そういう、フォッサマグナ上の渓谷を見て、しばらくするとトンネルが多くなる。その間で見る渓谷を見、平岩に着く。平岩では旅館などが駅前にある。狭い構内で行き違いのためしばらく停車する。トンネルを経ると長野県。長野県はJRの本州3社がすべてある県であるが、そのJR西日本部分はこの区間である。姫川も狭くなりながら、北小谷・中土を経て南小谷に到着する。ここから電化区間となると同時にJR東日本となる。駅前へ少しだけ出て、すぐに3両の電車に乗り換える。
最初は程良い乗車率であった。先ほどのような急峻な谷ではなく、落ち着いた谷を走っていく。スキー場が連続して現れるようになる。8ヶ月前はスキー用品を持った乗客が多く乗ってきたが、もちろん今回はそういう乗客はいない。駅前にすぐスキー場というところもある。私はスキーをしないのでよく分からないが、スキー場の勾配は急なのである。しかも、そのまま山の木を切っただけという感じである。
しばらくして、白馬を経て青木湖、そして木崎湖が見える。これも列車のすぐ近くに見える。そこを過ぎて信濃大町。だんだん乗客が増えてきていたが、ここへ来て恐ろしいくらい増えてしまう。当然乗ってくる乗客は座ることができない。松本に近づくにつれ、ようやく乗っているという状況で、周りの会話を聴いていると、朝のラッシュよりひどいとのことだった。そういう感じで、水田の中を細かく停車していき、当然それぞれの駅から乗客が乗ってきて、超満員で松本に到着する。
松本から塩尻の間はどうも覚えていない。何度か乗っているのだが、よく覚えていない。今度乗ったときにきちんと見ておかねばと思っている。塩尻で中央西線と別れる。と、なるようにみえるのだが、実はこちらの線路名称も変わっているのである。中央本線の直通列車がないために、東京方面から松本、名古屋方面から松本というルートが楽に通ることができるような配線になっている。
塩尻から、旧ルートではなく、みどり湖経由の新ルートを通る。みどり湖駅を過ぎる。みどり湖という湖自体は線路の近くにはないらしい。そして長い塩嶺トンネルを通る。トンネルを抜け、岡谷に着く。 岡谷駅では少し時間があるのでそばを食べておく。普段はこういう場合うどんを食べるのだが、長野県に来たからにはそばを食べなくてはならない。駅から中央自動車道と長野自動車道のジャンクションである岡谷ジャンクションが見える。山の高い部分を走っている中央自動車道から長野自動車道が別れ、高い陸橋で駅を含む谷を飛び越して、向かいの山に突き進んでいる。この線路とは全く別時代に作られた施設で、かなり大胆なことである。
飯田線の列車がすでに停まっていた。何両だったか忘れたが、かなり長い編成であった。しかも、一番後ろが改札に最も近いという形で、当然、前の方が空いていた。乗りたかったと思っていた路線をかなり空いた列車で乗ることができた。
岡谷を出て、単線の中央本線を進む。もう飯田線に入ったような感じであるが、辰野までは中央本線の旧線である。岡谷から辰野の間は飯田線の一部のようにして列車が多いが、辰野から塩尻の間は荷物列車改造列車が1両で走っている。とにかく、谷を進み、辰野に着く。ここからいよいよ飯田線である。
飯田線に入った瞬間に谷が広くなる。長閑な景色である。と思ったらすぐ駅である。またスピードを上げることなくまたまた駅ということで、これが延々と続くことになる。広い天竜川に沿った伊那谷の低いところを伊那市あたりまで走っていく。木曽駒ヶ岳も見えてくる。そうして駒ヶ根あたりから高いところを走り出す。天竜川を見下ろすようになってくる。そして、天竜川の支流を渡るために、極力橋を作りたくなかったらしく、支流と交差すると、90度曲がって、その支流を上っていく。そして、川幅が狭くなって、橋が架けやすくなってから90度曲がってようやく渡り、また90度曲がってさっき走ってきたところの対岸を走り、天竜川に近づくとまた90度曲がって天竜川に沿って走るという、今では考えられないような線路形態である。有名なオメガカーブというものである。それを渡ると、山の上に水田がひろがっており、時間を忘れるような景色である。
そういうところをいくつか通り、伊那大島を経て谷が広くなり飯田に近づく。飯田駅付近では市街地を迂回するような、恐ろしい線形である。伊那上郷と下山村の間がそういう形になっており、直線距離ではかなり短いのだが、線路が迂回しているため長くなっている。話によるとこの間、列車が走っている間に走るなり自転車に乗るなりすれば間に合うらしい。
飯田を過ぎて、徐々に谷が狭くなり天竜峡である。この駅で少し停車時間があったのでホームで飲み物を買う。飯田線内で、唯一外へ出た時であった。6時間、こまめに停車する列車にぶっ通しで乗っているのだが、思ったよりいやにならなかった。天竜峡を過ぎるとかなり谷が狭くなる。飯田線は北側は長閑な景色で、南側は川に沿った狭い谷のようである。川のすぐそこを通り、また、トンネルも多くなる。極めつけが佐久間ダム建設のために線路を付け替えた区間で、長いトンネルを通り山を越えて隣の谷を少し拝借して、それが終わるとまた長いトンネルでもとに戻るという形になっている。また、この区間になると疲れからか多少居眠りが入ってしまった。
そのあとも狭い谷を通る。そして広くなってくる。豊川を過ぎて、小坂井から名鉄線と線路が共用になる。いろいろと経緯があるらしいがそれは省略する。そして、東海道本線とも長い間並行して、いくつかの駅を過ぎ豊橋に到着する。
豊橋から新快速列車で米原まで向かう。だんだん日も落ちてきている。隣の席に座っていたおじさんがお菓子をくれたような記憶があるのだが、何しろ9年前の話でよく覚えていない。何となく海の近くを通っていたようであるが、地図を見ると三河大塚のあたりらしい。そうして、半分眠りながら名古屋・岐阜・大垣を過ぎて米原に着く。
米原では少し待ち時間がある。福井行きの普通列車や金沢行きの特急列車がある。どうもそれで帰ろうかなという気にもなるのだが、とにかく京都まで行くことにする。待合室にいると、この駅は新幹線の駅だったのだなと改めて思い出す。それよりも、朝からずっと列車に乗っていて、少し酔ったようで、何となく気分が悪い。車酔いとは違う酔い方である。この旅のあとも、何回か、早朝から行動しているときにそういうことになるが、この文章を書いているときの近くではそういうことはなくなっている。
米原から何度か乗っている新快速列車で京都へ向かう。その時の記憶は全くない。
京都まで着く。少し外へ出る。今はなくなった駅舎を眺める。そしてムーンライト山陽のホームへ行く。自由席になるとかなり行列がいるようだが、指定席券を持っているため、その心配はない。
座席は少し前の特急列車のような簡易リクライニングである。とにかくそういう列車で広島まで行くことになる。
目が覚めると山に向かって新興住宅地が広がっていた。かなり明るくなっている。その8年後、同じく間を乗ったときにもう一度その景色を見たのだが、八本松・瀬野を越えて、中野東や安芸中野あたりのようである。そしてしばらくして海田市を過ぎて広島に到着した。