1993年5月1日
【金沢】4:04発−(急行きたぐに)→【新潟】8:35着、8:57発→【村上】10:18着、10:54発→【酒田】13:09着、14:05発→【秋田】17:02着、17:47発−(急行よねしろ)→【大館】19:23着、20:08発−(特急たざわ17号)→【弘前】20:45着、21:08発→【青森】21:55着、23:08発−(急行はまなす)
※金沢駅を早朝に出る。夜行急行で新潟まで行く。その後は秋田まで普通列車で日本海を見ながら。その後は弘前まで急行・特急を使用し、青森発の急行「はまなす」に間に合わせる。
今回は朝が早い。というよりも深夜である。金沢を通る夜行列車から今回の旅が始まるのである。
ホームには急行きたぐにがすでに来ていた。当然のことながら急行きたぐにしか駅にはいない。しかもその他の列車を待つ人もいないわけで、発車メロディーである琴の音がいつもとは全く違って、とても澄んで聞こえた。そう思った次の瞬間、自由席に乗り込むと乗客が多い。デッキのしかも入り口から奥へは行けない。乗客も多いが、山登り等の関係者らしく、荷物が多いのでそれでも場所をとっている。夕方の普通列車の福井−春江間並である。ゆっくり寝ようと思ったがそれが出来ない。とにかく、どうにも出来ないのでそのまま乗っていることにした。
そのうち、高岡・富山と過ぎるにつれ、少し余裕が出てきたが、まだ客室に入ることができない。そのうち夜も明けてきて、急行能登ともすれ違う。そして、新潟県に入り糸魚川でかなりの乗客が降りた。これでようやく客室に入ることができ、座席に着くことができた。客室にいた人も乗客が多くてトイレへ行くことができなかったらしく、多くの人がトイレへ行く。
そうしてようやくゆっくりすることができた。まだまだ早朝なので、少し眠ることにする。気が付くと柏崎を越えていて、山の中の幻想的な景色であった。早朝で、少し霧もかかっていて、杉の木と寺であった。これは、信越本線の越後広田−塚山間の山越えで、長鳥駅付近である。
長岡でまた乗客が多く降りる。北陸からとにかく早く東京に着きたい場合はこの乗継ぎがよいようである。新津から快速になり、通勤電車のようになる。土曜日で、場合によっては通勤客もいるため、ある程度乗ってくる。そして、旅行客と通勤客を乗せたまま新潟に到着する。
新潟ではうどんを食べて朝食とする。ここから、秋田まで普通列車を乗り継ぐことにする。そのあと、普通列車で行くことができれば理想であるが、無理があるので急行・特急も拝借し、青森を目指すことになる。
新潟から村上まで行く列車である。7年も前のことであるからよく覚えていないが、新潟市近郊の路線らしかった。駅ごとでは自転車があふれそうなくらい停まっていた。しかし、水田が広がっているという景色であった。さらに、一部単線のため、何となくまだるっこしかった。
そうして、新発田で羽越本線が合流する。この羽越本線新津−新発田間の部分は、それから7年たったこの文章を書いているときでも乗れずにいる。この当時から乗るためにいろいろ考えているのだがなかなか乗ることができない。
新発田から村上までは、海がさほど遠くないのだが、途中に山があるため広い谷のようになっていてそこに水田が広がっている。そのようなところを通り、村上まで行く。
村上で若干の時間もあり、また、乗り換える列車に乗ることができないので外へ出る。しばらくして、乗ることができるようになったので、乗り込む。これからずっと電化区間を走るのだが、この当時電車が不足しており、気動車であった。1両目を覗くとすべてロングシートであった。そういう列車に乗らなければならないのかと思ったが、2両目は普通のクロスシートだったので安心してそちらに乗る。
村上を出て、しばらくすると海沿いを走る。普通の海沿いではなくて、岩が多い。そして、山が迫っていて、狭いところを走る。岩の規模も大きく、大きな岩をくりぬいてトンネルのようになっているところもある。越前海岸、あるいは能登の富来あたりの海岸に似ている。所々複線のようであるが、当然、複線化するときには2線を並べて線路を敷設することができず、上りの方がときどき山を走っている。下りの方は古くからある海沿いの線を使っており、ゆっくり海を見るなら当然下りの方がよい。
そのような海沿いを小波渡あたりまで、たっぷりと見ることができる。7年も経っているので詳しいことを書くことができないが、とにかく、規模の大きい岩であった。
小波渡を過ぎると山を越えて、突然平らなところで水田が広がっているところに出てくる。海を見せないためではなく、鶴岡・余目・酒田を通るためである。高校生も多く乗ってくる。会話を聞いていると、東北弁という感じがしない。全く違和感が感じない。ということは石川県あたりとよく似ているのである。そう思ってしまっただけかもしれないが、方言というものは広い地域で語ることができないのである。
酒田で時間があるので帰りの寝台券がないか聞いてみる。これがあるかないかで帰りのルートが変わってくるのである。幸いに日本海4号の函館−金沢間の寝台券を入手することができた。これは、その6年後分かったことなのだが、どうも、キャンセルされたものらしい。4月の下旬では逆に買うことができなかったのである。直前になるとキャンセルをする人がいて、それで買うことができる。
酒田からは客車列車に乗る。客車列車というとおかしいが、自分で走ることができない旅客列車を機関車が引っ張るというものである。当時このあたり、電車の普通列車が不足していてそういう列車が多く走っていた。今では、「取得価額半分、耐用年数半分」のロングシートの普通列車が幅を利かせている地域であるが、当時は客車列車が残っていたのである。
発車するときの独特の衝撃がありながら、発車する。
しばらくは水田の中を行くが、この間のどこかの駅で、妙に長時間停車していた。特急列車に抜かれてもまだ発車しない。北陸本線のように、方向の違う特急列車(雷鳥系統としらさぎ系統)が走っている場合、連続して追い抜かされることはあるが、ここではそんなに特急が走っていない。どうなるのかと思っていると、貨物列車が追い越していってしまった。北陸本線では普通列車が貨物列車を追い越すということはあるが、その逆である。つまり、基本的に貨物列車と客車普通列車が同じ早さとすれば、各駅に停まる普通列車の方が時間がかかるわけで、貨物列車が追い越していってしまうのである。電車ばかりになった今ではそういうことはないと思うが、そういうこともあって電車に置き換えられていったのだろう。
その後は、再び海沿いを走る。象潟で割と長く停まっていたので、改札を通って外へも出た。羽後本荘あたりでは一度内陸部に入ったが、また海沿いを走る。新潟−山形県境の険しさはないが、海沿いであることには変わりない。
そうして、また内陸に入り、秋田に着く。
秋田では桜が満開であった。金沢あたりでは散ってしまい葉桜。酒田では散っているところ。秋田では満開、青森で何分咲きかになり、北海道では全くのつぼみというように、飛行機では味わうことのできないことである。
秋田で少し時間があるので駅の前のデパートに入る。そうしているうちに時間が来たので「急行よねしろ」に乗る。一昔前の「急行」と違って、イスもすべて前を向いている。
夕方でかろうじて外が見えた。満開の桜が見える。そのうち日も暮れてきて、しかも通路側の席だったので外がよく見えない。また、この6年後も日が暮れた後ここを通ったので、この秋田−青森間の景色はよく分からない。いずれきちんと昼間乗ることだろう。
大館でいよいよ特急に乗る。この大館−弘前間を特急にしないと間に合わないのである。自由席特急券を買おうとすると、知らない人であるが、初めて見るわけではない人に声をかけられる。よく見ると、白新線の普通列車で向かいに座っていた人であった。どうもこの人も北海道へ行くということである。
大館からは本当に暗くなっていて分からない。そして、弘前で普通列車に乗り換える。そのまま大館からの特急に乗っていても青森に着くが、早く着きすぎるということと、少しでも特急料金を節約するためであった。弘前からの普通列車は車体が青い客車列車であった。もうこの区間でそのような列車に乗ることができないが、当時はそのような列車に乗ることができた。
そして、青森に着く。青森ベイブリッジが印象的であった。
青森駅の前などへ行って少し時間をつぶしてホームへ行く。急行はまなすが来るホームで待つ。割と早くホームにいたので、乗り込むときはきちんと窓側の席に座ることができた。これが、特急白鳥だと、特急はつかりの乗客に席を取られて、うまく自由席をとることができないのである。
隣に座った人が床に新聞紙をひいてくれたので、楽に座ることができた。初めて通る青函トンネルだが、夜行列車でもあるので意識にない。何となく長いトンネルで途中、光の列が見えたが、それが一番深いところだったのだろうか。
次に気が付くと函館で、かなり多くの人が降りた。昔の青函連絡船深夜便の役割を果たしている列車だというが、そのようである。隣の人もいなくなり、車内が空いてきた。
そして気が付くと、千歳線を走っていた。今回、帰りを考えると、南千歳−札幌間を乗ることができるのが今だけなので、居眠りをしなければ「乗りつぶし」となったのだが、だいぶ寝てしまったのでこの区間は「乗りつぶし」としないことにする。実際ここが「乗りつぶし」となったのは、この6年後であった。
そうして高架の札幌駅に着く。札幌駅は金沢駅と同時期に高架化され、高架化の仕方もほとんど同じなので何となく金沢駅に似ている。規模は違うのだが、柱の造りなどはそっくりである。